神の裁きと訣別するために

ごみにもごみの有用性があると信じて。

 

 

神の裁きと訣別するために:つまりは、ひとつの表現に向けての序説

 

 ここに述べられるのは、福音であり、呪詛である。これを読むひと、読まされひと、関係なく鏖殺を望む。と、同時に全ての人の救世を望む。であれば、私たちが問題にすべきは、いつだって自らの「肉体」のことであり、すなわちそれは、「かたち」になるということ、つまりは自らの肉体が滅びるまでに、どれだけの強度をもった精神を建築するかということである。私たちは、愛と自由について、臆することなく語る必要がある。
 現況、少なくとも我々が知る限りは、個別の肉体における故障ーー俗にいう「死」ーーが起きたのちに、ほかの「もの(それは似たかたちを持つ同胞であれ、ことばであれ、クッキーであれ)」から何らかの、生を拡充しうる触発を受けられるかどうかを知らない。ここに、いま、個体として幽閉されてしまった霊魂は、「水の中の水のように」物質とその諸法則に埋没するばかりではなく、それを何らかの意味で変質させうる能力、つまりは何ものかを、「愛したり」、「殺したり」することができるのである。ここにいう「愛する」とは精神の経済に益するひとつの表現ということであり、「殺す」とはその逆である。であれば、私たちがなすべきことは、物質を愛し、精神を全体として強壮することである。わたしは「理性的である」という状態を、このように解する。
 ある精神は、他の精神と直接的に出会うことはできない。このことは、眠れない夜、他者への呼びかけとしての、あらゆる意味での「表現」から疎外された経験がある人ならば、そのことは何をいうまでもなく諒解されよう。附言しておくと、絶望した時に、たとえば泣けるのならば、それは真の絶望ではない。なぜなら、たしかに「孤独さに泣く」という経験は肉体以外から疎外された状況の証左ではあるが、しかし「肉体」という他者からは疎外されておらず、人間存在にとって根本的な、もっとも近いものである「肉体」にその窮状を訴え、その承認を得ることによって、物質の世界へ這い出て、個であることに過度の意識が集中する「個別的な精神の孤独さ」の、強度の地獄から、拡散した、動物的な粗野な意識へと帰還する隧道であって、孤独の経験としては不徹底なものであるからだ。

 当初、私がこの「学位論文」という機縁のもとで扱おうとしていたフリードリヒ・フォン・ハルデンベルク(またの名を「ノヴァーリス」)という個体は、ゾフィーと呼ばれたものが彼の世界から、彼の表現に何らかを応答するものとして消滅した際に、この「強度の絶望」へ陥ったように思う。彼はそこから、凡百の個体よろしく、自らの肉体の毀損を思案した。しかし、それを許すほど彼の精神は粗末なものではなかった。条理をもって考えれば、「肉体の機能を何らかの方法で壊す」ということでは、彼の味わっている根本的な絶望からは免れる保証はなく、むしろ、曲がりなりにも物質を介して表現し、他なるものと交流できている現状を棄てるということは、より救いようのない地獄へ、身を擲げることによって身を擲げるということを意味しかねない。それは経済的合理性を持合わせない。そのようなありふれた当然のことに思い至り、彼は、この子宮としての世界から、正しく生まれるための「修業時代」へと移行した。しかしその期間はきっと誰が思うよりも短く、しかしそれを行わずに物質の世界から退場する個体が多い中、ある持続をそのように過ごしたという意味では長く、終わった。
 哲学。ひとつの、誰かを救うに足る、勁いロープを発明すること。哲学が作成する「概念」とは、ようは金剛のように硬く、しかし年度のような軟さも兼ねたことばで、真理としての強度をもつ、そしてその強度ゆえに人を活かしも殺しもするひとつの道具なのだと解する。ノヴァーリスという素晴らしい名を用いて書かれた、ハルデンベルクの『花粉』において掲げられる「種を播く」というモティーフは、それが来るべき雨と、来るべき栄養と婚姻を結ぶことで、来るべき花園を期待するという点から、「賭け」である。未だに断片として孤独な世界を、和解させること。これをなすためには、世に有用な機械を殖やさねばいけない。「知を愛する」ことは大学で論文を書くという形態のそれ許りでなく、あらゆる表現の基礎であり、契機である。ものとものとに働く仕組みを知ることで、それをより精神に益する布置に置くように、愛すことができる。そうして作動した関係を更に愛する。
 纏まった長い文章を書くという経験において、連ねることばの「数」そのものの無意味さを噛み締める。しかし、同時に貧しい大地に、芽吹きそうな種を播くということは、或いは、真実へ迫るための実験は、当然その「数」が問われるのであり、その意味で数そのものが同時にその個体の質、強度でもある。凡ゆる人に愛が伝わるよう、凡ゆる手段で媒体を作り上げること。つまりは、思索によって詩作したものを試作とすること。ことばによって表現をなすという分野は、今日、なぜか細分化されてしまっているが、そのスタイルそのものは常に問われるべきものであり、互いにその作用を実験されるべきものである。ゆえに、ここに連ねられていることばたちの配列方法は、哲学論文とも、文学とも、詩とも、いい切れない上にそのうちのどれとしても成熟できていないものだと自覚している。自分のどうしようもない未熟さ、さながら蛹のように、ある形態を見せつつも、中身はグロテスクに変容しているような歪さを、どうしようもなく痛感している。

 ハルデンベルクの文章に関しては、主に参照「雑録集」については、批判校訂版全集にも適宜目を通した。しかし、それ以上に、主に今泉氏による文庫三巻から成る作品集と、薗田氏による『雑録集』の翻訳を介して彼の思想に触れた。この文章は、結局彼の肖像を描写するものにはなり得なかった。が、彼の播いた「種」を、より使える媒体に花するようにしようという決意のもと、ある種「書かされた」文章であることは否みようがない。ノヴァーリスによって/とともに/のために……、ことばたちはこのような星座を連ねた。一応はこのような配置についたことばたちではあるが、しかしその内容は常に中断されたものである。どこであっても僕は、愛を語ろうと努力している。しかしそれに近づいたかと思うといつの間にか遠ざかってしまう。本当のことを書いていたはずなのに、いつのまにか思考が迷子になってしまう。いま「『い』と書いた自分」と、「『、』と打った自分」は、同じ身体のうちにあって、きっと別の精神であり、次に生起する、「誤字を訂正する自分」は、今、暫定的にこのように並べられた文を、既に厭い、いちから書き直すかもしれない。事実、今も細かい書き直しを行った。このような、「もののどうしようもない断片性」をハルデンベルクは「断章」という形式から、つまり、最低限のまとまりを残して、冗長な「語り」を排除することで、「騙り」から逃れようとしたのだと思える。僕だけかもしれないが、適当なまとまり以上の文章を、適切な布置のもとから「正しく理解」するということはできないように思う。僕が読むのは常に離れ離れの文章で、前後の文脈のなかから、読める文章が自らを啓示してくるような感覚である。それを、同じく啓示されたほかの文章と出会わせて、それがどのような思考をぼくのもとに実を結ぶか、ということからしか、僕はことばを「理解」することができない。その意味で、読むということは常に介添えをするようなものだと解する。だから、その理解をそれ自身に「真理性」、つまりは最も硬いものとして誇示することは僕には能わず、ただそれの道具としての効果を説明するということしか、僕にはし得ない。たとえば、お世話になった剣道の先生に、僕の語る内容の、それ自身の正しさを説明するよう、九州の、獰猛な犬のような巻舌で脅されたとしたら――「なおォ、おまェ、それは正気でいっとんのかァ!」――、僕は縮こまるしかないと思う。蓋し、ここで「真理」を語りうるものは、「狂人」か、「神」か、どちらかだろう。僕は、そこで僕が発明した概念の、真理としての強度を説明することしかできない。人間が人間として語り、発明しうる「真理」は、どれだけ広範に使いうる道具かどうかということ以外に、どういうかたちをとりうるのだろうか。僕たちは、たしかに歴史、つまり先の精神たちが遺した愛の種とも、花とも、実ともいえる諸事物の関係、あるいは構造の元に今を生きている。この身に余るその発明から、僕らはより栄養になる実を選び、より土壌が肥えるような糞をしなければならない。「排泄」や「廃棄」ということが不当に貶められている世相を感じる。例えば、都内でトイレやゴミ箱を探すと、その少なさに途方に暮れてしまう。一方で僕らに消費を促す広告や、店舗は、氾濫している。まるで、消化はせずとも嘔吐すればよいではないか唆すように。こんなに不毛なことがあるだろうか。――「君たちは、肉体を離れてどうしようというんだ!」――常々思う。いや、ずっと叫んで回っている。人間が肉体を蔑ろにして、天使になろうとする傾向性は、怠慢であって、明確に誤りである。人間はどこまでも肉体と精神との綜合であって、そのことを無視して、人間的な自由は考えられない。そんなことはパスカルやM.アドラーの卓見が示すまでもなく、当然のことだ。人間が人間として「透明になる」、つまりは不和を改善し、美を叶えること。このことによってしか、人間は精神的、理性的にはなりえない。美に対する意識は、真実であろうという意志であり、同時に愛をなす礎である。これらのどの段階でも、ひとは躓きうる。獣のように醜悪にふるまうことも、悪魔と契約を結び「真理」の幻を見続けることも、数多の寓話が諷じてきた。にも拘わらず、ひとは過つ。悲しいことだ。しかし、同時に耕す余地のある土地があるということは、仕事があるということだ。それは僕にとって、慶びでなくて何なのだろう。――「永遠の女性、 我らを高みに引きゆく」(ゲーテ手塚富雄訳『ファウスト 悲劇第二部 (下)』)――僕らは、永遠に美的なものへの恋をもってしか、理性的になりえない。
 身体の均整。若いうちには差したる努力もなく得られるものかもしれない。しかし、ひとは譬えば、老いたり、怪我をすることで、不可逆的に変質してしまう。この変質に対して、どのように応対し、どのように新たなる美を叶えるか。このことを理性がもしかすると宿っているかもしれない今、考えなければならない。ゆえに問題は造形、つまり「かたち」を考えること以外にはありえない。「『哲学とは何か』という問を立てることができるるのは、ひとが老年を迎え、具体的に語るときが到来する晩年をおいて、おそらく他にあるまい。」(G.ドゥルーズ/財津理『哲学とは何か』七頁、河出文庫)と、卓越した個人であるドゥルーズが、その晩年を飾る著書『哲学とは何か』の劈頭で述べている。これは、通俗的に「晩年」を「身体が老いた」と、勿論とるべきではなく、まさに「身体を乗りこなしたとき」だと読むべきだと思う。若い身体は、過剰で、これを精神が乗りこなすことは難しい。けれども、歳を経て、かつさまざまな事件が個人という場に起こることで、人間という建造物は完成をみる。この条件を整えるために、若い人間は精一杯、美的な努力をしなければならない。ひとえに感覚的な美ではなく、様々な実験から、習慣として、「どのようにすれば美しくなるか」という感覚の論理を学ぶという意味で。ゆえにここに並列された文字は常にあるひとつの、ありうべき論理、文法を探しているのであり、僕という個体がどのような条件のもとで強度と速度を手に入れうるかを試している途上なのだ。
 現況、一人称が「私」と「僕」のあいだで揺らいでいる。これは形式と内容の間の漂いである。「私」と述べている私は反省をもって思考に秩序を齎し、表現を行おうとしているように思え、「僕」として表される僕は、思考に加速し、散逸しつつ統一を志向しているように思える。「論文」という形式のうちでは、「私」しか出現することが許されないのだろう。しかし、本当のことを書いているあいだは「僕」しかいない。美的なことを書いているあいだは「私」しかいない。我々の表現は、いったいどちらをより優先すべきなのだろうか。昔書いたものを再構成するのか、今活きていることばを速度をもって並べること。どちらの方がより「実」になるのか。澄ました嘘と、澱みのない本音は、どちらのほうがより表現として、つまり、他者をより愛に導くために効果的なものなのか。
 澄ましたツラをして、嘘ばかり並べる人形には、どこまでも、その余裕の根拠を問い詰めたくなる。形式に、嘘に、死に、胡座をかくことができるのはどうしてか。どうして欲望する動物としての無と、計算する機械としての無の、どちらからも追放されていることに気づかないのだろうか。どうして誰も「存在」しようとしないのか。死からも生からも追放された、胎盤の中で臍の緒が首に絡み、生を享け損ねて腐乱した、最も憐れむべき、最も蔑みべきなにものかであることを、どうして誰もまだ知らないふりをしているのだ。僕は、全てを叫んだ。だのに、どうして誰も聞こうとしないのだ。この福音を。勝義の啓蒙を。生そのものの内容の過剰に対して、形式はどこまでも虚偽に過ぎない。どこに「かたち」というものがありうるのかを、生と死の対立ばかりではなく、死を生によって征するということ、形式を精神化すること。あるいは、「世界をロマン化すること」――。ハルデンベルクのことばで、僕が初めてであったことば。「神の裁きと訣別するために」。アルトーのことばを掲げて、ノヴァーリスを論ずること。靴を履き忘れた彼のあとを、存在の過剰から照らし出すことが本懐だったならば、もとより、形式から逃避し、増殖する癌を播く腹積りだったのだろう。「殺す」と「殺したくない」の複数性。線路に飛び込む、君の靴を履いたあの人が、きっと君でないことを願う。でなければ、僕が殺せなくなってしまう。他でもない、君を――。
 どこかを、何かを「卒業」するということが、ひとつの形式をもって、それに適合しているか否かで量るようなものであれば、きっと僕は何者でもありえず、どこをも卒業できない不良品なのだろう。けれども、そんなことが大した問題になりうるのだろうか。そう考えられるようになったのは、頽廃なのか、前進なのか、わからない。

 「ひとつの哲学はけっして一軒の家ではなく、ある作業場なのである。」これは、大学に入りたての頃、必死に、しかし盲目に読んだバタイユのことばである(G.バタイユ湯浅博雄訳『宗教の理論』十三から十四頁、ちくま学芸文庫)。閉じることなく、絶えず他者の到来を期待すること。今、曲がりなりにも、私という場において結実した、このひとつの果実を食するかもしれないあなたと、これを助けたあなたに、あらん限りの感謝と祝福をもって、訣辞としたい。まさに「在り難い」ことに対して、「ありがとう」といえる状況は、どれだけありがたいことだろうか。――ありがとう。
 そのように書くことで僕は何を終えようとしついるのだろうか。

 「死ぬまでに、私たちが今みたいにお話できる時間はなんて短いんだろう!まだあそこの毛も生え揃っていないころから飼っていた文鳥の芳江も、僕が初めて自分の眉を整え始めたときには、居なくなってしまった!だというのに、僕はこの語り尽くせない愛、この源泉の感情を、どうやってあなたに伝えればよいのだろう!」――これは、ある恋するものの嘆きだ。しかしそれは同時に仮構だ。書くことはつねに恋文だ――誰かに、自分の窮状を必死に、誇張して伝えようとする意味で――。
 僕はものを、だれかを愛するために――もし「目的」というものが未だに効力をもつのならば――、まさにそのためにこそ、ここに在り、この「調書」に回答している――「尤も、『綺麗な』ことに病的なかたちで執心しているようにみえる、この青白い大学では、自らの病状を告白させられる『カルテ』と譬えたほうが適切かもしれないね。」――僕は「東大最後の無党派マルキスト」を名乗る無頼な友人に、そう応えた――。
 「お前は誰なんだ!どこで、なにをしていて、家族は何人いて、どんな性的な嗜好があって、そもそも男なのか女なのか、それともそれから外れたがる面倒な奴らなのか……(少し間をおいて)大学ではどのようなことを研究してきたのだ!神の名の下に懺悔せよ!」――誰の声でもなく、その身体の泥臭さから免れて、法的に、しかし法の外で問う物。その物の謂いは、「裁く神」である。僕は本来ここで、自らの「専門」を、静的に細分化された個性を、問われた声のあり方に等しく、極めて法的な、倨傲をもって微に入り細に入り、書く義務があるのだろう。――「Dekaruto御大が『われはあり』とたまへり、ゆゑにわれあり!」――質ちの悪い冗談だ。そんなものは自分で見つけるものだろうに――。
 しかし、僕は法に対する無根拠の畏怖をもたない。いや、持てなかった。だから僕の語り口には、敗色が――ふわふわした白く、可愛らしい服に零した醤油のように――極めて濃く染み付いている。社会的な通念を是認して生きていれば、「知を愛する」だなんて、そんなことに躓くまででもなく、雰囲気に従って可愛い女の子とお付き合いをし、浮気し、され、結婚し、離婚し、けれどもそこそこの進路でそこそこの安定を築けたろうに――希望的観測が過ぎるか――。酒場で歌うピアノ・マンの声が聴こえてくる。――”Honesty is such a lonely words Everyone is so untrue”――。別に、真面目な嘘吐きは彼だけでないのだけれど。
 だとすれば、敗けた僕は、何者でもありえなかった、この不可能な身体は、いかように振舞えば?――踊れば?歌えば?あるいは、書けば?――僕の筆致は、常に恋するもののそれでしかありえない――気障で、我意に充ち、読みにくく、真面目な大人を怒らせ、しかしどこまでも誠実であろうと自らを差向ける――。無神論者である僕は、その限りで来るべき真なる僕自身、あるいは「神」――この不恰好な手紙の宛先である「あなた」がその人かもしれない!――を待ち望む。ここでもう一度彼を引こう――”And mostly word I need from you”――。中学生の頃、わけの分からないままに――もちろん今もわかったとはいえないが――何度も聴いたこのことばが、こんなにも僕を震わせる、身体になるだなんて!
 僕は神の国の到来を信じている。聖書に対する正しい理解も、神学についてのいっぱしの知識も、僕にはない。けれども、僕は考えてきた。ひとつの、「もの思う葦」として。この「世界という書物」の「読み筋」を。たしかに世界は不条理だ。けれども全ての出来事には理由があり、縁起がある。つまりは世界を不条理だと頭から思込んで振舞うことは、きっぱりと白痴であり、これは恥ずべきことだ。――誰も傷つくことなく、もう惑うことのない世界を造形すること――「普通」からは逸脱しているのかもしれないが、今ならたしかにいえる――これは、断じてある。ありうる。思案は敗北した。――ある愛おしい敗北者は、「カントは、私に考えることのナンセンスを教えてくれた。いわば、純粋ナンセンスを。」と嘯く。ここにいう「カント」の名は、これを読むあなたの思う「カント」とは当然違うものだろう。この言い種に怒る人すらもいるかもしれない。しかし、名に、ことばに、のっぺらぼうな「もの」という以上の「意味」など求めようもないのだ。だとすると、彼のいうカントは、「當時の通俗哲学者とは自分をいばって區別しようとして、自分の思想を宮廷くさい冷えきったお役所言葉でよそお」うような「俗物根性」を見透かされた、ひとりの「ちょっと考えることが好きなおじさん」としてのカントなのだろう。しかし彼は、考えたことを少し気後れするような量で残した。だから聖人にもなろうし、俗なじじいとも謗られよう。だけれど、ただのおじさんは二百年も後になって讃えられも誹られもしまい。だから彼は偉いのだ。

 論文とは、形式――あるいは制度、法といってもよいだろう――とは何なのだろうか?私は制度に反骨するつもりはない。ただ、自分がそれをもとに自らを変容させる――殺される――に値するのかを吟味したいだけだ。――そのように悩んで、何も書かずにいた。すると、当然に何も書いていないので、殆ど零字で残り一週間近くになっていた。――僕たちは常に遅すぎる。しかし、何に?どのようにして?――だいいち、僕は書くことがわからない。のに、どうやって書けばいいのだろうか。思考を、書くことを、根茎に例えた人もいるが、どうやら僕はそのようにして書くしかないらしい。すべての思考は、ものは、ひとは、断章で、本当の意味を失ってしまったヒエログリフだ。ならば、ことばを繋ぐことが、接続の過程、かつ仮定であることをまぬかれないのではないだろうか?そう思った。しかし、そう考えると、間違いなく世界は接続の可能性に――愛の実現可能性に――満ちているような気がしてくる。ならば、表現することに、悩み、躊躇う必要はないように思えてきた。だとすれば、ここに書くものはなんだろうか?それは、見果てぬ百科全書の夢、あるいは恋文――しかし、この冗長さからして、決して「彼女」には伝わることはないであろう――である。すべての孤児を真正に結婚させ、世界に存在を花すること。これを目指さねばならばならない。ならば、結婚詐欺――つまりは恰も愛がそこに現象しているかのように騙る欺瞞――を行う必要はない――「哲学は 銃殺刑だ もうちゃちなメタファー 捏ち上げるな」――!凡ゆる形式は、棄却されつつ成立しなければならない!それはひとえに、ひとつの、ただひとつの愛の実現へ向かって――。ノヴァーリスについて書く。このことは、ノヴァーリスが結んだことばに少しよりかかって、しかし自分について書くこと――播かれた種に、産婆の慈愛を以て水を遣り、伸びた根茎を少しでも育て、より多くの花粉を、世へ放つこと――。これでしかありえない。そう信じる。他ならぬこの、僕が。

 ――「遠くへ行きたい」。そんな番組があった。日曜の朝に、いわゆる「ニチアサ」の特撮を見るために、たまたま早く起きたときに、漫ろに観ていた――早朝田舎を通過してゆく、自分は乗らない電車を眺めるように――憶えがある。そしてまた漫然と、その番組名と、交わらなさから、ひとつ、「ここから最も遠いところ」を空想していた……気もする。とまれ!――そんなひとつの仮構が頭を過る。ここで書いていることは何なのだろう。徒然なるままに、思いついたことを書いているだけだ。けれどもしかし、この「思いつき」にも固有の論理があるのではないかと思う。
 ――「憧れ」。これから随伴する走者は、このことばを大切にしていた。彼について考えていたから、また仮面ライダーが好きな子ども時代をすごしたから――他にもさまざま、無自覚な要因はあろう。それも、無限通りに――、このような断片的な想像を享けた。こうして歴史的に組み上がった身体と、思考の戯れ。ここに論理という命脈は、流れているのではなかろうか?――身体を忘れ、思考のなかで完結した体系は、それこそ現実に効力を持たない。どうにも意識と重く関わっているらしいこの身体以外の、いわゆる他者の身体を毀損することを禁じる「法」――「汝殺すなかれ」――が、凡ゆる殺人を悉く許容してきたように。ならば、仮初に断片と断片の距離を偽って、文字列そのものが自律したかのような欺瞞に、何の意味があろう?

 ――ハルデンベルクは恋をした!しからば誰に?ゾフィーに!そして、より遠く、世界全てに!――
 彼は運命と偶然にもすれ違った病者ではなかった。彼は運命と偶然にも行き当たり、それを純粋な世界への信仰、愛へと昇華せしめた。つまるところ、彼、ノヴァーリスはいつも恋する人であった。けれども、肉体は二八年でその活動を停めた。ただそれだけのことなのである。その人生はどこまでも健やかでで、喜劇的であった。「肺病の灰色」などと揶揄される翳りはなく、どこまでも喜ばしき旅路を、彼は、――。
 「私は、いま、多少、君をごまかしている。」――げに。嘘はよくない。ことにそれが愛を語るものならば。肉体が活動を停めるということは、どこまでも、そこらの機械が故障することに似る。いや、じじつ、同じことなのかもしれない。だけれど、それではあんまりだ。彼は早逝した。きっと、大きな悲しみが多くの世界に生まれただろう。そのことは、否定しえないことだ。ハルデンベルクは、彼のゾフィーが、世界との接続点が、それ以上触れられないものとなったとき、ある「決意」をしたことはよく知られる。――自殺。肉体の物理的毀損。「ゾフィーの死以来、ぼくをとりまいている言いようもない孤独についての観念――彼女とともに、ぼくには、全世界が死滅してしまったのだ――それからというもの、ぼくはもはやこの世界には属していない。」と彼は六月九日、ゾフィー歿後八三日目の日記に――彼は敬虔にも、ゾフィーの肉体から離別したその距離を、日数として数値化しているのだ!――そう記す。死者として世界に投げ出される――「この映画に 終わりはない 画面の外で 死んだふたり」――。
 僕が彼に興味をもったのは、ひとえに、君たち――それは誰でもないのかもしれないが!――が、どうも彼を「狂人」として、理解から最も遠い場所へと追いやろうとしていたからだ。「ふざけるな。」僕はそう思った。そんなものは愛がない。存在しない。だからこそ、少し深く、彼について「弁護」しようと思った。そして、知れば知るほど、そうやって彼を排斥する悪意なんかものともしないほどに、彼はゾフィーを、世界を、深く、フェティッシュに愛していることを知った。彼はしっかりと、世にいわれるほど「自殺」が簡単なものではないことを見抜いていた。当然だ。肉体の毀損は、既に少なく知られた自然の法則に自らを殺させる、「殺人」に他ならないということを――機械が故障することと何も変わらないことを――、そんな単純で、共有されているべき見解を、当然に知っていた、しかし数の少ない人間のひとりだったのだ。たしかに彼は早世してしまった。もっと生きていたなら、僕に伝わるかたちで、もっと多くのことを綴っていたのかもしれない。けども!僕は彼が、僕のわからないところへ行ってしまうことがなければよかったと、真剣にそう思う。「これが正義でなくてなんなのだ?」

 「何を書こうか。こんな言葉は、どうだ。「愛は、この世に存在する。きっと、在る。見つからぬのは、愛の表現である。その作法である。(太宰治「思案の敗北」、『もの思う葦』所収、角川文庫、六三頁)」僕は太宰が嫌いだった。それは、高校の恩師に影響されてか、感傷ぶって、気障なようすで教科書に写る彼からか、あるいは、その両方によるのか。もしかすると、同じく太宰を忌避した三島と同じようなものだったのかもしれない。自殺とは、肉体であることから敗退することだ。けれども、太宰は、悪意に蓋われたこの世に絶望しながらも、どこまでも「愛すること」を表現しようとしたのだと思う。じじつは知りようがないし、知りたいとも思わないが。その健気さに僕は背中を押される。「愛すること 叶わなくとも だろう?」――げに。

 「哲學全般はただこの最高の表現を見出すことに向かつて努力するのである。(シェリング西谷啓治訳『人間的自由の本質』、岩波文庫、二〇版、四五頁)」ここで思い出したのが、その次に掲げたシェリングの文句だ。不真面目な学生であった僕は、講読にはわけも分からず、翻訳もその場しのぎで参加していた。受け容れて下さった先生には頭が上がらない。けれども、彼のいうことは今分かるような気がしている。彼は「意欲wollenが根本存在Urseinである(前掲訳書、四五頁)」といっているが、ここにいう「意欲wollen」は太宰のいう「愛」ではなかろうか。傍証はもちろん提示できないが、しかし、僕にはそう諒解される。「愛することと、それを身振りすること」。真だとか善だとか美だとか、そういうふうに凝結したことばではなくて、哲学Philo-sophieの本義はそういうふうにもいいうるのじゃないだろうか。そして、そういうことをしないのならば、それはライオンに出会したら喰われてしまう、かよわい獣だろうし、来るべきシンギュラリティによって、機械になり変わられてしまう、出来損ないの計算機だろう。
 「存在とは、愛がそこに現象していることである!」――そんな狂人のような真摯さは持ち合わせない。僕はペテン師なのだから。けれども、存在ということの根が、そこにしか根づかないのならば、ほんとうに存在しているのは、いったい何なのだろう?「存在忘却」だ何だといっていた独逸人がいるらしい。しかしそれはまだまだ固くて、甘えた表現で、――人々は、愛することを忘れている!――人々は、孤独であることを忘れている!――人々は、身体に閉じこめられていることを忘れている!――そういうふうにいうべきだった。だから人を殺すことをどうにも思わないようになってしまう。もう、誰も死ぬことのないように!そうでないと僕ひとりすらも救われないじゃないか!

 ながながと、まるで博論本のあとがきのような――いやもっと感傷的だ。太宰にでもなったつもりなのか?――文字を連ねた。しかしまさに、この文章は――僕が二十余年付き合っているが未だに隠れたる――この、まったく偶然に享けた身体を介して、辛うじて脆い繋がりを得たがゆえに、本質的に断章である。そこにある断絶は、まさに僕が、そして君が、無知であるがゆえにヒエログリフのように韜晦するいとまを与えているがゆえに現れた仮象に過ぎない。我々が知を愛するのは、ひとえにこの断絶を、あらゆる点を――魔術的に!――婚姻させることを愛するがゆえではなかろうか?
 たとえこの身が果てようとも!僕がひとつでも遠く離れた恋人たちの、愛を実現することが出来ていたならば――それはきっと素晴らしいことだ。錆びついて動かなくなった繋がりを経って、新たに結びつけること。

 けれども、それなりに真剣に書いたこんな、路傍の電柱に張り付いた広告のような文章も、愛することが叶えば、きっとはしごのように抛擲たれるべきものだろう。ゆえに、僕はここではハルデンベルクとともに種を播く。いつかきっと、誰もが優しく、素直になれる世界が到来することを信じて。

<参考にした文献>
ノヴァーリス/今泉文子訳「ノヴァーリス作品集」一から三巻
ノヴァーリス/薗田宗人・今泉文子『ドイツ・ロマン派全集 二巻 ノヴァーリス
シェリング西谷啓治訳『人間的自由の本質』、岩波文庫、二〇版
太宰治「思案の敗北」(『もの思う葦』所収、角川文庫)
・G.ドゥルーズ/財津理訳『哲学とは何か』、河出文庫
・H.ハイネ/伊東勉訳『ドイツ古典哲學の本質』岩波文庫
山内志朗『天使の記号論岩波現代文庫
・M.アドラー/稲垣義典訳『天使とわれら』講談社学術文庫
・G.バタイユ湯浅博雄訳『宗教の理論』ちくま学芸文庫
・A.アルトー宇野邦一訳『神の裁きと訣別するために』河出文庫
・中井章子『ノヴァーリスと自然神秘思想』創文社
柴田陽弘ノヴァーリスの「神」』以文社
田中均「『死は我々の生をロマン化する原理である』――ノヴァーリスの一七九七年の日記・書簡と『ロマン化の詩学』」
・小田部胤久「ノヴァーリスにおける『断章』の精神についての一つの断章」
・小田部胤久「ロマン主義美学を突き動かしていたもの――三つの源泉をめぐって――」
・小田部胤久「自然の暗号文字と芸術 自然哲学と芸術哲学の交差をめぐるカント・シェリングノヴァーリス
・大澤遼可「ノヴァーリスの『断章』とは何か:記述しえないものを記述する」