翻訳について――ひとつの覚書

 少なからず翻訳を大学で行ってきた身として、翻訳についての、ひとつの典型的にして根本的な悩みに突き当たった。それはいわゆる「直訳か、意訳か」というものである。当然、それらが不可分にして表裏をなしているということは、他の誰を参照するまでもなく自明だ。しかし、これに対して、「この問題はむつかしくて、人によることだ。ニヒリズムに屈することこそが民主的な振る舞いなんだぜ?」と囁く貌無しの声を遮って、私はひとつの見解を示したい。それは常に誰かによってではなく、私であるために。

 

 さて、改めて本題に入ろう。そもそも、翻訳とは「何から何へ翻る」ものなのだろうか。それは当然に、異邦のことばから、自らのもっている「この」ことばへのものである。すなわち、特殊に翻訳と呼ばれる営為にせよ、それは第一に「私が書く」ことであり、異なる言語を読んだ「この私」の表現でなければならない。では、それは「意訳」を優先することに直に帰結するだろうか?

 それは尚早だろう。というのは、あくまでその私は、何者かのことばを誠実に(読むことはいつでも、誠実な対話でなければならない)読んだ私でもあるからだ。書かれたものを忠実に読む。ここにはある種「直訳的態度」が必要になるだろう。しかしあくまで、そうした直訳的態度は一次的なテクストを読むときに必要なものではないだろうか?もし翻訳が直訳的態度に終始してしまうのなら、それを読む読者がもとのテクスト、「翻訳」を経ていないテクストを当たらない理由はなんなのだろうか?単純な直訳が不要だとまで思わないが、そうした翻訳は「テクスト註釈」と分類したほうが適切であろうし、テクスト註釈なのなら、その仕事を全うするために、ただ原文をぽんと日本語にしたものを置くのではなく、文法的にしろ、歴史的にしろ、テクストから繋がりうる全般的な註記が要請されるはずだろう。

 では以上に述べた「テクスト註釈」とわかたれた意味での「翻訳」をどう考えるか。私は、「直訳的態度によって読んだテクストを私のことばとして、意訳的態度で表現する」ことだと思う。世界には字面以外のところにも、いろいろな「文脈」が流れている。それを広義に「読む」ことによって、読解は成立する。つまりは、そうした、「テクストを追いかけるだけでは読めない文脈」を自分という媒体を介して表現すること、これが翻訳の本懐なのではないだろうか。私はこう考える。

 

 ここに述べたことは誰かしらの何かの焼き直しに過ぎないように思えるかもしれない。しかし、「バートルビー症候群」に悩まされた私が、その病から恢癒しつつある、つまり「脱人格化」しつつある証として、特に推敲もしていない、生のこの「文脈」を、公表したい。