癲狂院に通へる一學徒の手紙

近々考えていたことを、どのように「哲学的なスタイル」で書くかを考えて、仮の章立てですが、出力してみました。ほんとうに無駄で大袈裟な言い種で恥かしいですが、以下その内容です:
 
>「新たなるツァラトゥストラ誰もが読む必要のない時代が来ることを切望する、ひとつの梯子」
 
導入:われわれは愛しいものへ抱くこの思いについて、何万字も、あるいは一文字ですらも、無駄口を叩く必要があるのだろうか?
1.わからず屋を説得することばとしての無駄口
2.けれども多くを語るものは常に嘘つきだ。
3.しかし、なんらかの見えるもの、数値によってしか愛を表現する勇気を持てない人がいることも確かで、私はそのような人も見捨てたくはない。
 
1.美とは何か?:真理が現象する形象としての美。
a.動物と人間はどう違うのか?
b.殺すことは正当化されうるのか?
c.「ただ殺す動物」でない何ものかとしての「人間」はありうるのか?:美的なものへの形成を行うものとしての人間。
d.「下劣なもの」を愛する精神。
→「美の無関心さと理性に関する考察:美は愛の実現にどう益するのか。」
 
2.真とは何か?:愛を実現する効果がある道具としての真理。
a.精神は日常に偏在しているにも拘らず、どうして現象しないのか?
b.真理の効果とは何か?:循環を促すものとしての愛。
b.「生きている貨幣」:日ごろにわれわれが取引しているものは何か?
 
3.善とは何か?:愛の実現。
a.「他人のために何かを行う」とはどのようなことか?:世界の関係性の構造を知らなければ効果的な行いはできない。
b.自分を知ることとは何か?:自分の身体の歴史的規定性に気づくことで、自分と世界の直接的因果性を知る。
(ココマデ)
 
:以上のようなことを大学院でも行いたいと考えています。その上で、
 
1.特に導入部の内容(書くこと、特に散文を書くことに関しての考察)を意識しつつ、卒論を改稿する。
 
2.第一章にあたる内容(美の無関心と精神の現象)について修士では扱いたいと考えています。それに際して、主に;
 
A.カント『判断力批判』の「美の無関心性」の議論:そのほか、『視霊者の夢』・『美と崇高との感情性に関する観察』・『人間学』における心身の関係(坂部『理性の不安』などを導きの糸に)。
B.ヘーゲル精神の現象学』における第一部・二部における感性と自己意識の議論:『現象学』全体の構成(「教養」とは何かという視点から)における批判:『歴史哲学講義』の正当性の検討:当該議論の歴史的継承(特にコジェーヴバタイユのライン)の検討。
C.シェリング『世界諸世代』における無から有の生成としての「歴史哲学」の議論:その他、芸術哲学に関する整理。
D.メニングハウス、マンチェフなどの、現代的文脈の美学から古典の読み筋を学ぶ。
 
を扱い、かつ、並行して表現の方法論(最広義の学問論)を考えるために;
 
A.百科全書の企て、あるいはアルス・コンビナトリアとしての魔術の系譜(ライプニッツノヴァーリス、)
B.ニーチェの系譜学的手法(フーコードゥルーズスローターダイクなど):延長して、「演劇」をモデルとして、「生存の技法」に関する研究(この問題はむしろ美学の方においたほうがよいほうな気がしますが、書いてしまったので、いちおうここに配置します)。
C.プラグマティズムの真理観(より善い効果を及ぼすものとしての、暫定的真理)の検討。
 
というふうに研究を行ってゆこうと考えています。
 
先日から地下室で認められた手記のようなメールばかりで申し訳ございません。
とにかくこういうことを書くのはよいのですが、しかし伝える相手がいないと意味がないと思われるなかで、恐らく修士の2-4年、あるいは博士以降も面倒をおかけするであろう〇〇先生に相談するのが適切かと思い、お忙しいのを承知の上で、「読み筋」の剪定を行っていただければと思いました。
卒論の進捗が破綻しているなか、このような相談ばかりで大変恐縮ですが、ご一読頂ければ幸いです。